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一首評(第十三回)

静物で在るという抵抗のあり寒き戸外に青林檎並び
             (京大短歌19号 廣野翔一「雪の終盤」より)

 「静物」というのは不思議な言葉である。「静物を描く」と人が言うとき、確かに「静物」はキャンバスの前に文字どおり静かにたたずんでいる。しかし、描かれなければ机の上のどの果実も、ガラス瓶も、鳥の羽も、髑髏も、「静物」ではない。描かれない静物などありえない。

 描かれないものがしかしそれでも静物として存在すること、それはまさに何者かに対する抵抗である。青林檎は「静物で在る」ことで、食べられるか腐るかするはずのその運命、時の流れから距離を置き、冷たく凛とした空気の中にただただ存在している。絵画の内部にわれわれが入っていけないのと同様に、描かれることのない静物たちにも、我々は拒まれている。

 注意するべきは、この歌が「青林檎並び」と、動詞の連用形で結ばれている点である。上の句の終わりも「あり」とイ段の音で終わっていることもあり、舌足らずな感じがする。しかし同時にこの連用形終止によって、この歌の危うさは際立つ。描かれた絵画の中の静物であれば半永久的にそこに存在し続けることができるが、描かれることない静物たちはどんなに抵抗してもいずれ変質してしまう。「青林檎並び」の連用形は、林檎たちが次の瞬間には静物であることをやめ流転する時の中へ転がり落ちていってしまうのではないか、という緊張感を生んでいる。

 絵画の中の静物たちは、永遠の安らぎの中に眠ることができる。しかし、描かれることない静物たちによる世界への抵抗は、静けさの中に鋭いエネルギーを秘めてつづいてゆく。絵画と言葉、時間と永遠、空間と平面。それらが拮抗するある一点を、この歌は切り取っているのである。

二〇一三年六月三〇日 吉田瑞季

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