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一首評(第9回)

なめらかに石越えゆける春の水をこころ解かれてながく見てをり
                 (横山未来子『金の雨』)


「なめらかに」で始まるのにふさわしい、実に流麗な歌である。淀みがない。

解説するまでもなく、歌意は容易にとれてしまう。
作中主体は〈春の水〉――川の上流の方の、岩がちでおそらくは澄んだ流れなのであろう――を見ており、そしてその水の流れをじっと見つめながら、心が解きほぐされてゆくように感じている、と。

ナ行やマ行の配置(なめらかにいしこえゆけるはるのずをこころとかれてがくてをり)によって、韻律には心地よい流れが生まれている。さらに「春の水を」という腰の句の字余り。石を越えてゆく水流そのものを思わせるゆったりとした6音によって、上句=情景描写と下句=作中主体の心境が自然に接続されるとともに、歌全体にいっそうなめらかさが加わっていることに注目したい。

また多くの読者は、おそらく前掲歌を見た時に(漠然とではあっても)志貴皇子の和歌を連想したであろう。

    いはばしる垂水の上の早蕨の萌え出づる春になりにけるかも
    (万葉集巻十・1418・志貴皇子)

この喜ばしい春の到来の歌と重ね合わされることによって、前掲歌には不思議な明るさや光のようなものが(光や明るさという語を一度も使わないのに)見事に宿っている。

結句の「見てをり」も、しばしば使われる技巧ではあるが実に巧みである。「をり」という時間性のある動詞によって、読者はそこでたたずんで春の水を見ている作中主体にまで思いを馳せることになるだろう。

けれども。
この歌の明るくあざやかなイメージのうちに、一点の翳りのようなものが垣間見えないだろうか。作中主体の春の水をみつめるまなざしが全的に明るいと、断言できるだろうか。

この屈折を生んでいるのは「ながく」という表現だと思われる。そこに留まって何かを長い間見ている作中主体を考えた時に、何か悲しみのようなものをどうしても思わずにいられない。
(もちろん、恍惚として――文字通り「こころ解かれて」――いるから長い間見ているのだ、と言うこともできるだろう。もちろん、そのような解釈もできるのだが、ここではその可能性も踏まえたうえで、個人的にはそれだけではないものを感じる、と言っておきたい。うっとりした忘我の境地を読みとるには、あまりにもこの歌は端正であるように見える。)

それが何であるのか、はっきり言うことはできない。
可能性としては、例えばそれは憧れの変奏であるかもしれない。ゆったりと流れてゆく春の水を眺めながら、そう自由にはならない自らのことに思いを巡らせているのかもしれないし、あるいはまた、この歌集全体に流れている「老い」や「死」といったテーマ(愛猫の死であったり、自らの老いの萌芽に対する自覚であったり)のようなものが、この歌にもわずかに反映されている、ということもできるかもしれない。

どこまでも清澄であり、のびやかな春の水の質感をよく伝えながらも、読者に不思議な翳りのような感覚を残す一首である。それはまた、横山未来子さんの短歌、作品世界全体に通底する特徴のひとつでもあるだろう。

二〇一三年一月九日 安田百合絵

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