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一首評(第5回)

炎天にガリバーは来て踏みやらむ葡萄のごとき頭骨の群れを
(辰巳泰子「紅い花」より) 

 学校を詠んだ歌は数多くある。ほとんどの日本人が学校に通った経験と、それぞれの学校の景色をこころの中にもっているし、とりわけ教員として勤務した経験がある歌人も少なくないから、当然と言えば当然である。学校は不完全な子どもたちが、同級生と、先輩と、後輩と、教師と関わり合うミニチュアの社会であり、ミニチュアであるがゆえに濃密で閉じた世界である。学校で起こったことは何もかも、ときには、何も起こらなかったということさえ、ドラマである。
 辰巳泰子も、大阪の中学校で国語講師として働いた経験があり、連作「ガリバーは来て」は、その頃の体験を材料に作られたものであろう。人は学校を語る時、青春のユートピア的なあこがれの対象、もしくは強権的な教師と純粋な子どもとの対立の場というようなステレオタイプに陥りがちである。しかし、辰巳泰子の視点はあくまで教師を職業に選んだ一個の人間としてある。理想に燃えた熱血教師ではないが、子供たちを不当に弾圧するような教師でもない。その実感的でどこか冷静な視点から語られるからこそ、リアリティーがある。

掲出歌は「朝礼」と詞書がある。なるほど、校庭にひしめく生徒たちの頭が「葡萄のごとき頭骨」であり、それを巨人のガリバー(正確には踏まれる方が小人であるわけだが)が踏んでゆく。これは炎天がもたらしたくらくらする白昼夢なのか、それとも教師としての口に出せない願望なのか。
 葡萄のごとき、という比喩は一見さわやかだが、それがひしめきあいつつ踏まれゆく頭骨の比喩であると考えると、ひどくグロテスクである。本来硬さのあるはずの頭骨を、ぐしゃっとつぶれる葡萄に例える。ふだんは教師の手に余る中学生たちも、あまりに無防備で無力に踏みつぶされていく。そうやって周囲に飛び散る脳髄のさまも、この比喩によってありありと想像される。
 作者が意図したかはわからないが、前述したように、本来は「ガリバー」が通常の人間の大きさであり、踏みつぶされる対象は小人であるということも、生徒たちの無力さを強調している。校庭という一種の箱庭的空間に並んでいる生徒たち(そして作中主体ら教職員)は実はとても矮小で、外から来た強大なものに簡単に壊されてしまうような存在なのではないか。「ガリバー」のフィクション性も、この感覚を強化している。

 ところで、なぜ作者は結句の「を」を省略しなかったのだろうか。たとえば「頭骨の群れ」と体言止めで終わっても、意味は十分取れるし、音数が合う。このような場合、おそらく多くの人が自然と助詞を省略すると思う。しかしこの歌ではまるで念を押すように助詞を入れている。なるほど、「頭骨の群れ」と体言で音数通り終わると、一首があまりにさらりと出来上がってしまう。「を」の一音が、読む人をこの一首に立ち止まらせる。この過剰さがこの歌の情感を支えているのである。

 炎天の朝礼、というのは現在では安全面などに考慮してあまり行われなくなっているのではないだろうか。炎天の朝礼の、ふと誰かが倒れてしまいそうな危うさは、些細なきっかけで壊れてしまう拙い人間関係の危うさにも、出してはいけない感情があふれ出しそうなこころの危うさにも通じる。そんな微妙なほころびに満ちた世界を、ガリバーはおもむろに踏んでゆくのであろう。

(二〇一二年八月十八日 吉田瑞季)

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