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一首評(第3回)

会えぬものばかり愛した眼球の終のすみかであれアンタレス
(佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』)

 「会えぬ」「ばかり」「愛した」「眼球」と、語頭や特に句頭で繰り返されるA音がアクセントを呼びこみ、破調のない定形と相まって、畳みかけるような歯切れのよいリズムを生み出す。Aは明るく翳りのない音だ。そして四句目に来て初めて句頭からA音が外され、「終の」「すみか」と二語続けてトーンを落としたU音で導かれる。「眼球の終の」という「の」の繰り返しも、三句目までとは異なる韻律を生み出すのに効いている。膝をかがめるのは次の跳躍のため。「すみか」の「か」でかすかに頭をもたげたA音が、それまでよりいっそう輝きを増して、五句目の冒頭で高らかに宣言される。「あれ」という短い命令文。この命令のひと回り大きな相似形のように、「あ・れ」の二つの音を再び掲げる「アンタレス」の名。命令文が句割れを生じさせ、固有名詞(体言止め)を呼び出すといういかにも力強い結句で、A音だけでなく「れ」の音もポイントになっていることで、二段の階段をたんたんっと軽やかに駆け上るようなリズムが生まれる。駆け上った先は星と神話の世界だ。

 アンタレスは蠍座のα星(星座中最も明るい星)である。夏の南の空に赤く輝く一等星。赤や輝き、鮮やかさを表現するのにA音はふさわしい。
 この蠍は、巨人の狩人オリオンを殺した蠍である。オリオンの傲慢さに怒った大地の女神ガイアが地上に送りこんだ。この功績により蠍は天に上げられて星座になり、オリオンも女神アルテミスの憐れみにより天に上げられる。オリオン座と蠍座はほぼ反対の位置にあって、同時に空に現れることはないが、それは今でもオリオンが蠍を恐れ、東の空から蠍座が現れると西の地平線に逃げこむからだという。
 つまりオリオンは蠍にとっての「会えぬもの」であり、逃げるオリオンという物語に対して、蠍の方もそれを追いかけるという補足をすれば、「会えぬものばかり愛した」と言われているのは第一に蠍であり、その眼としてのイメージを重ねられたアンタレスなのだ。
 世間一般に言う愛ではない。オリオンは蠍が殺した相手なのだ。蠍を恐れて、その前には決して姿を現さない。しかし対極にあって決して巡りあうことのない相手を永久に探し求めること、恐怖されても忌避されても追い続けることは、それが憎悪であれ、敵対であれ、究極的にはたしかに恋慕とかわりない。そしてかれらは実際、広大なこの宇宙のなかでつねに互いの存在を感じ取り、互いの動向にしか注意を傾けないのだ……。
 恐怖も憎悪も包括して、それを愛と呼びうるのはおそらく星々の世界だけだ。あるいは、星々の世界においてもなお、生きる死ぬなどという地上的なものごとを捨て去れずにいることが愛であるのか。

 この歌の中核をなすのは表面に現れている呼びかけではなく、歌の前提として組みこまれている、蠍座のオリオン座に対するものも愛であるという命題の方である。それが発見や認識として前面に押し出されるのではなく、だれもが当たり前に共有している真理であるかのようにさりげなく提示される。
 しかし、低音でつぶやかれる「終のすみか」も全く無視してしまうわけにはいくまい。
 直接的に「会えぬものばかり愛した」と言われているのはむろんアンタレスではない。地上にはきっと、会うことの叶わない相手を恋慕して爛れるように輝く、数知れない眼がある。休息を知らないそのような眼球たちの「終のすみか」としてアンタレスが呼び出されているとき、希求されているのは慰藉であるのか。
 終のすみかという語は通常、死ぬまで住み続ける場所を指すが、ここでは死後の永遠の居場所と考えるべきだろう。この語には穏やかな響きがある。報われぬ眼球たちにも死の後には安住の地を得さしめよ、あるいはオリオンや蠍のように、(一つの星座を形成するには至らなくとも)星の世界で顕彰されてあれ。そのような歌とも読める。
 しかしアンタレスの愛は、その規模においても時間性においても、地上の生きものたちの想像をはるかに超えて大きい。恋慕する眼球たちにとって唯一の休息かもしれない死を奪って永遠性の中に巻き込み、神話的に壮大な情念のなかでともに身を焼かせることは、ほとんど呪いではないだろうか。
 呪いであってもいいのだろう。もはや通常の幸不幸の基準をあてはめることはできない。愛とは休息より永久運動を希求するものかもしれない。安易な同情やなぐさめはこの歌になく、あるのはむしろ澄み切った悟りである。かくも奇妙な、拷問に似たものも愛と呼びうる。かような愛がそれでも見つめようとし続けることを望むなら、それらすべてをアンタレスが引き受けてやるがいい。そのような悟りを湛えて、歌はあくまでも明るく、誇らかでさえある。

 ところで永遠化されるのは愛の対象ではなく、あくまで愛そのものである。愛の対象がとうに塵になっても、眼球たちはアンタレスに同一化してオリオンに身を焼き焦がしている。このとき対象は実のところ、何であってもよかった。愛はその対象を乗り越えていってしまうのだ。そして対象を乗り越えてしまった恋慕を、天に上げるための階梯としてこの歌、ことに結句が機能する。

二〇一二年七月二八日 川野芽生

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