やり投げのやり空中を進みをり八時間前のロンドンのそら
小島ゆかり
「オリンピック ~二〇一二年夏・ロンドン~」と題された連作の一首。夏季オリンピックの競技種目のひとつ、槍投げを詠んだ歌である。
「やり」が空中を行くのは「進みをり」と現在時制だが、それは「八時間前」の過去のことである。まずここに、時制のうえでの奇妙なずれがある。作中主体は槍投げを観戦しているが、録画しておいた試合を八時間後のいま見ているとも考えられるし、リアルタイムで見ていて、「八時間」というのは日本とロンドンのあいだの時差を指しているのだとも読める(実際の日本・ロンドン間の時差は九時間だが、ロンドンでサマータイムが実施されていたと考えれば説明はつく)。だが前者の読みでは、現在時制で描かれた槍投げも実際のところは単なる過去になってしまい、時制のずれがもたらす奇妙さが後者の読みに比べ色あせてしまうように思う。ここでは後者の読みを採用したい。
作中主体はテレビ越しに槍投げを観戦している。投げられた槍を、テレビのカメラが追っていく。その一瞬をとらえている。しかしこの歌は、単に実景を切り取っただけではないように思われる。読み終ったあと、先に見た時制のずれのせいか、かすかな違和感が残る。たしかに歌われている内容は、単なる実景かもしれない。だがこの歌は、読者のなかに、ある不思議な感覚、ある気づきへの糸口をもたらすようだ。その違和感は何に由来するのか、それはどんな隠されたものの糸口なのか、それを以下では見ていこう。
わたしたちが生きている世界には「時刻」の概念がある。時刻は、イギリスのグリニッジ天文台を基準にし、そこから東西にどれだけずれているかで「いま」を割り振っていく、ひとつの制度である。他方で「時間」は、わたしたちがまさにそのなかで生きているものであって、そうした取り決めとは本来無縁のもののはずだ。だから時刻の概念を、時間というものと比べてみたときには、なにやら騙されているような感覚すら覚える。
槍投げをテレビの前で観戦する作中主体と、ロンドンの競技場で槍投げを競う選手たちは、きっと同じ時間を生きている。だが時刻のうえでは、日本にいる作中主体はロンドンの選手たちよりも、少し「未来」を生きている。いま、まさに空中を飛んでいる「やり」をわたしは見ているのに、「やり」はわたしにとっては「八時間前」を飛んでいるのである。これが違和感の由来だろう。時刻と時間のずれとでも言おうか。
しかしなぜ、こんなずれを気にするようになったのだろう。この問いは違和感の根底にあるものを導き出す。日本が夜なら、ロンドンが昼なのはまったくの常識だ。なんの不思議もない。このずれが感知されるのは、わたしたちが日本にいながらにして、ほぼ同時に、遠く離れたロンドンの光景を見ることができるからだ。長い距離をこえて、同じ光景を共有することができるということは、これもまた不思議なことだ。
地球のうえの、かなり離れた二点にいる人々は、おそらく同じ時間を生きている。だが二点が属する時刻には、八時間のずれがある。それにもかかわらず、メディアの発達のために同じ光景を共有できている。テレビの前の作中主体と、ロンドンの槍投げ選手のあいだには、時刻のずれがあり、距離の隔たりがあり、しかし共有するものもある。これらのからみあいが、世界に隠されたささやかな不思議を形成している。
「やり投げのやり」というとき、実際のテレビ画像がどうかはともかく、歌のカメラは「やり」しか映していない。選手も観客も競技場も、フレームの外に捨てられ、とらえられているのは空と、まっすぐ進む「やり」だけである。いや、空ですらないかもしれない。結句では漢字がひらかれ、ひらがなの「そら」になっている。「ロンドンの」という限定は付いているけれども、それは空間性が抽出された虚空を喚起する。時刻のずれと、距離の隔たりから自由な「そら」である。「やり」が地面に着地してしまえば、また競技場が映され、時刻は始まってしまうだろう。だから歌は、中空を進み続ける「やり」の、一瞬をとらえる。「やり」は未来にむかって進み続ける。想像を逞しくすれば、「やり」は、テレビの前にいる作中主体の方へ飛んでいるのかもしれない。
オリンピック競技の槍、しかも飛んでいるということから、古代ギリシアの哲学者、ゼノンが唱えたパラドクスを連想することも、決して突飛なことではないだろう。「飛んでいる矢は各瞬間で一定の位置を占め、静止している。ゆえに矢は運動することができない」というものだ。着地を免れ、中空を行く「やり」の一瞬をとらえたこの歌と、イメージのうえで響きあうように思う。
この一首は槍投げの、何の変哲もない一瞬を簡潔な言葉で切り取ることによって、世界のささやかな不思議を提示している。歌の時制のうえでのずれは、そのまま時刻と時間のずれであり、それは隔たりつつも同じ時間を生きる、わたしたちのありかたの不思議そのものに結びついている。この歌を読むとき覚える違和感は、そのような世界の謎に由来するものであり、かつその糸口でもあるのだろう。
2015年5月17日 畑中直之
歌の引用は、小島ゆかり『泥と青葉』、青磁社、2014年によった。
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