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一首評(第十三回)

静物で在るという抵抗のあり寒き戸外に青林檎並び
             (京大短歌19号 廣野翔一「雪の終盤」より)

 「静物」というのは不思議な言葉である。「静物を描く」と人が言うとき、確かに「静物」はキャンバスの前に文字どおり静かにたたずんでいる。しかし、描かれなければ机の上のどの果実も、ガラス瓶も、鳥の羽も、髑髏も、「静物」ではない。描かれない静物などありえない。

 描かれないものがしかしそれでも静物として存在すること、それはまさに何者かに対する抵抗である。青林檎は「静物で在る」ことで、食べられるか腐るかするはずのその運命、時の流れから距離を置き、冷たく凛とした空気の中にただただ存在している。絵画の内部にわれわれが入っていけないのと同様に、描かれることのない静物たちにも、我々は拒まれている。

 注意するべきは、この歌が「青林檎並び」と、動詞の連用形で結ばれている点である。上の句の終わりも「あり」とイ段の音で終わっていることもあり、舌足らずな感じがする。しかし同時にこの連用形終止によって、この歌の危うさは際立つ。描かれた絵画の中の静物であれば半永久的にそこに存在し続けることができるが、描かれることない静物たちはどんなに抵抗してもいずれ変質してしまう。「青林檎並び」の連用形は、林檎たちが次の瞬間には静物であることをやめ流転する時の中へ転がり落ちていってしまうのではないか、という緊張感を生んでいる。

 絵画の中の静物たちは、永遠の安らぎの中に眠ることができる。しかし、描かれることない静物たちによる世界への抵抗は、静けさの中に鋭いエネルギーを秘めてつづいてゆく。絵画と言葉、時間と永遠、空間と平面。それらが拮抗するある一点を、この歌は切り取っているのである。

二〇一三年六月三〇日 吉田瑞季
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7月歌会のお知らせ

7月の歌会は、以下のように開催します。

【日時】7月9日18時半~
【場所】東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区)
【詠草】題詠一首「魚」

駒場キャンパスの正門は、渋谷から井の頭線で2駅の駒場東大前駅(急行は止まりませんのでご注意下さい)の、渋谷寄り改札を左に降りた目の前にあります。

参加される方はhongotanka○gmail.com(○を@に変えてください)までご連絡ください。歌会の詳細についてお知らせいたします。

一首評(第十二回)

美しき脚折るときに哲学は流れいでたり 劫初馬より
(水原紫苑『びあんか』)



 痛覚に訴える表現、というものがある。例えば怪我の描写などがそうだ。痛みの鋭さは誰しもが想像しうるため、そうした表現は強く印象的なものになりやすい。しかしその反面、露悪的な表現になってしまうことも多い。なぜなら痛覚に訴える表現というのは、多くの場合強制的に痛みへの移入や共感を呼び込むような表現でもあるからだ。


 水原のこの歌も、「脚折る」が馬の骨折を指すと読んだ場合、一種の痛覚を刺激する歌であるといえる(「脚折る」は脚をたたむ動作とも読めるが、今回は慣用表現からの類推で骨折と読むことで生まれる面白さを採る)。しかしこの歌では、身体的な痛みを呼び込む各要素が、同時に痛みへの移入を妨げる効果を持っていて、その二つの相反する働きが、露悪的でない絶妙なバランスを生んでいる。今回はそのバランスの生成を追っていきたい。


 まず水原はこの歌において、「美しき脚」を提示する。そして人の脚なのか昆虫の脚なのか、何の脚か分からないままに、その脚は「折」れる。骨折の場面だ。その痛みが読者の脳裏に浮かびそうになる。しかし骨折の痛みは、脚が美しいというその視覚的な効果によって、すでに移入しづらいものとなっている。ここでは骨折は画としてとらえられているのだ。そのため「脚折るとき」は、抑制された痛みとシリアスさを伴いながら、「哲学」という語の重みに接続していく。


 その「哲学」は、次の場面で「流れいで」る。哲学の流出は、流血を想起させると同時に、負傷によって知性的なものが負傷者からこぼれていってしまうさまを表す。つまり負傷によって負傷者の意識が、思索的、抽象的なレベルから「痛い」という実際的、具体的なレベルへと強制的に移行させられることを思い出させる。だが、実際にはそれは流血ではない。流れているのは哲学という抽象的、非実在的なものだ。ここでも痛みに対して、一歩引いた視点が導かれる。また哲学の流出のイメージは、多少痛覚を刺激しながらも、その裏で「脚折るとき」という痛覚の表現を想像の世界に飛ばしている。なぜなら脚が折れるとは言っても、骨折において脚自体がぽっきりと折れて、何かが流れ出るというのは現実的ではないからだ。


 そして最後に、「劫初」という語と「馬」という語が並んで登場する。「馬」という単語はそこまでのすべての表現を馬の肉体に着地させ、骨折と流血の具体性を再び引き出す。馬の肉体性、温度、存在感が導かれた後では、馬が感じている感覚、その痛みが少しばかり強く迫ってくるかと思われる。しかし同時に「劫初」という語は時間を遠くに飛ばし、かつ思想的なものを想像させる語である。その「劫初」のイメージは、直後に来る「馬」という語から、先ほどまでの馬の肉体のイメージとは違う、馬が関わる神話の世界のイメージなどを引き出す。その馬のイメージと、劫初の思想的なニュアンスが、「哲学」と響きあいながら、この歌の物語を思索的な雰囲気で覆い、遠い時間性の中に追いやり、先ほどは少しばかり強まるかと思われた痛みを和らげる。ある意味、「劫初馬より」というフレーズは、「劫初」と「馬」のスケール感の隔たりから、歌の流れのスムーズさを損なっているとも言えるが、「劫初」と「馬」が並ぶことで、「馬」という語から馬の神話性と肉体性が同じくらいの強さで引き出されるという点で、このフレーズは効果的だ。なぜならその二つが互いに相反する効果をもたらすことで、我々は幻想性と現実味を奇妙なバランスで感じたまま、歌を読み終えることができるからだ。


 骨折を痛いものとして描きつつ、同時にその同じ表現によって骨折の痛みを対象化していく。水原のこの歌は、そのアンビヴァレントな働きかけによって、奇妙に現実味を帯びた幻想の世界へと読者を導き、そこで淡い痛みを感じさせるのだ。


二〇一三年六月二三日 宝珠山陽太

6月歌会のお知らせ

6月の歌会は、以下のように開催します。

【日時】6月21日(金)18時半~
【場所】東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区)
【詠草】題詠一首「美」

駒場キャンパスの正門は、渋谷から井の頭線で2駅の駒場東大前駅(急行は止まりませんのでご注意下さい)の、渋谷寄り改札を左に降りた目の前にあります。


参加される方はhongotanka○gmail.com(○を@に変えてください)までご連絡ください。歌会の詳細についてお知らせいたします。


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