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一首評(第7回)

あはせ鏡のうちなるごとき街路樹のひとつすなはちすべてに触れゐつ
(光森裕樹『鈴を産むひばり』)

 整然と並んでいる街路樹はたしかに一本一本見分けがつかず、長い並木道はどこまでも終わりが見えなくて合わせ鏡のなかの世界のようだ。一本の木に手を触れると、すべての木に触れたことになる。その全能感。
 合わせ鏡のなかは果てしなく広い。ほんとうに、どこまで行っても果てがない。その一方で鏡そのものは平面であり、二枚の鏡にはさまれた空間はとても狭い。この開放感と閉塞感の両方が合わせ鏡においては真実である。
 合わせ鏡という認識によって、作者は並木道の内側に無限を呼び出しながら、同時にどこへも行きようのない閉鎖空間を作り出す。並木道はそれだけで完結したひとつの世界のように感じられる。この広漠たる空間を、わずかな動きによって作中主体の存在が満たし、作中主体の掌においてすべての木が束ねられる。

 この自己完結したような世界観には、どこか少年らしい瑞々しさがある。どこへも行けないような狭さのうちに果てしない広がりを見出し、自分だけのその世界で万能となるのは、少年期のありようそのものだ。
 じっさい、少年期はこの歌集においてひとつの主要なモチーフとなっている。「にはたづみに見おろす葉月のあをぞらに鳥を待ちゐしのみ少年期」「花積めばはなのおもさにつと沈む小舟のゆくへは知らず思春期」「砂時計おちゆく砂と等量にのぼるものあり青年期過ぐ」など。

 また、この歌はIT技術者としての仕事を中心的な素材としている連作に含まれており、連作全体を通して読むと、「あはせ鏡」からウェブへの連想を誘われもする。ウェブもまた、平面のむこうにある広大な世界である。
 そのような連想を許すような無機質さがこの歌にはある。直接的には「鏡」という道具から引き出されたものだろう。しかし、整然と立ち並んでいる街路樹も都会的な光景であり、一本一本異なるはずの樹木を同一の木に還元してしまう発想には(木を人に入れ替えてみればわかると思うが)冷徹とさえ言いたいようなクールさと現代性が潜んでいる。

 無機的なものを見つめる涼しいまなざしと、少年的な感性。そのふたつが両立している点にこの作者の魅力があるように思う。たとえば「鳥の名で統一したるサーバーのひとつがやはり応答しない」「進捗を示すグラフに切り替へるつかの間映る空の壁紙」といった歌。テクノロジーと自然物が同居して叙情性を醸し出している。
 引用歌は一見ITと何の関係もない。しかしこのような歌の中でこそ、根本にある発想のクールさが少年めいた瑞々しさと風景の幻想性を最大限に引き出している。相反するように見える特徴が、見事に結晶した歌である。

二〇一二年九月一六日 川野芽生
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2012年9月の歌会

9月の歌会は以下のように開催します。

 日時 9月26日(水)13時~16時 場所 東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区)
 詠草 題詠一首「鳥」

駒場キャンパスの正門は、渋谷から井の頭線で2駅の駒場東大前駅(急行は止まりませんのでご注意下さい)の、渋谷寄り改札を左に降りた目の前にあります。



参加される方はhongotanka○gmail.com(○を@に変えてください)までご連絡ください。歌会の詳細についてお知らせいたします。

一首評(第6回)

来たよ、この道を来たよ 概して夜はいっぱいのどがかわくね
(山中千瀬「小鳥を抱いて」)

 東日本大震災のすぐ後、作家や詩人が自作を持ち寄って朗読する「ことばのポトラック」というイベントが東京・渋谷において開催された。企画したのは大竹昭子で、「いま必要なのは凝縮したことば、詩や短歌のことばなのだ」と考えてのことらしい。「ことばのポトラック」は計八回、一年に渡って続いた。(評者は書籍を通してのみこれらのイベントについて知っている。)

 二〇一一年十月九日に開催された第五回のテーマは「声がつなぐ短歌」で、穂村弘、栗木京子、石川美南、東直子、岡井隆、早稲田短歌会による短歌朗読などが行われた。掲出歌は早稲田短歌会の山中千瀬による朗読(連作)「小鳥を抱いて」十首のうちの五首目である。

 まず印象的なのは初二句である。読点、一字空け、崩された定型、そして呼びかけのリフレイン。五六で読むか三八で読むかは迷うところだが、リフレインの効果を重視して三八で読みたい。内容面では具体的情報に乏しいが、下の句と合わせて考えると夜にそれなりの長い距離を歩いたということではあるだろう。震災当日、交通網の麻痺のために徒歩で帰宅した人々のことを思い浮かべてもいいだろう。

 初二句のリフレインはある種のエネルギーの蓄積、緊張の高まりを引き起こすが、三句はそれを下の句に向けて鮮やかに転換・解放している。「概して」の一語だけで、夜には様々な種類があり、とは言いながら大抵それらは喉が渇くもので、初二句はその一例に過ぎない、という三つのことを示しており、特に三つ目は一首の構造を決定しているという意味で重要である。韻律面においても、初二句では目立たないア行音、しかも「ガ」という少し質量のある音で始まる点や、四音という三句にしては珍しい字足らずが利いている。

 下の句は「いっぱい」が巧みである。「イ」音、促音、「パ」音、適度な片言性の組み合わせが絶妙な効果をあげており、きっちり定型に収まっているにもかかわらず自由さを感じさせる。「たくさん」や「とっても」による代替も不可能である。夜に喉が渇くというごくありふれた体験が、「来たよ、」から「ね」までの言葉の連なりによってここではどれほどきらきらと美しい(そしてあるいは苦しい)ものとして描出されていることだろうか。

 ところで、掲出歌の初出は「声がつなぐ短歌」ではなく、二〇一一年三月十日発行の『早稲田短歌』四十号であると思われる(他の出演者も既発表作・新作を取り混ぜて朗読している)。発行日の偶然はともかく、震災前の作であるとは考えていいだろう。山中は十二首連作「むしたちの」(とそれ以外に三十首連作)を寄せているが、これは全て枕詞を折句とした歌から構成されており、掲出歌はその二首目として含まれている。例えば一首目は「いりひなす【入り日なす】……「隠(こも)る」にかかる」という詞書に続く「いつまでも緑雨【りょくう】さらさらひからないなら虫たちのすべての羽音」(この【】内のみルビ)であり、掲出歌の詞書は「きみがよの【君が代の】……「なが(長)」にかかる」である(「小鳥を抱いて」では詞書は付されていない)。

 興味深いのは、「むしたちの」においてはあまり掲出歌が活きているようには見えないことである。それは一つには他の十一首は全てほぼ具体的に虫を詠み込んでいるにもかかわらず、この歌だけはそうなっていないからであり、また折句というコンセプトやそれに伴う詞書が目立ってしまっているからでもあると思われる。

 しかし最も重要なのは、震災というコンテクストによって読みなおすことで――それはある意味では詠みなおしでもある――掲出歌が断然活きてくるらしいということである。もともと具体的な情報が少ない歌であったためにそのまま震災詠としても読めてしまい、またそれ故に必要以上に深刻ぶったりはしないバランス感覚を具えることとなった。そしてそのバランス感覚の下における三句の働きによって、一時的ではあるにせよ、何もかもを変えてしまう震災を組み伏せることができてしまっているようにさえ見える。

 「声がつなぐ短歌」には他にも見るべき歌はあるが、山中のこの一首は不思議と心に残った。枕詞を折句として作った歌を震災後に読み/詠みなおすという重層的かつ偶発的な行為がこれだけの力を発揮するという事実を、評者はただただ眺めていることしかできないが、欲を言えば、それだけの偶然を呼び込んでしまう機会を一度か二度ぐらいは持ってみたいものである。

参考文献
・大竹昭子編『ことばのポトラック』(春風社、二〇一二)
『早稲田短歌』四十号(早稲田短歌会、二〇一一)

二〇一二年九月一日 近藤健一
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東京大学の学生を中心とした学生短歌会です。

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