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2012年8月の歌会


8月の歌会は以下のように開催します。

 日時 8月29日(水)14時~ 場所 東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区)
 詠草 題詠一首「豆」

駒場キャンパスの正門は、渋谷から井の頭線で2駅の駒場東大前駅(急行は止まりませんのでご注意下さい)の、渋谷寄り改札を左に降りた目の前にあります。



参加される方はhongotanka○gmail.com(○を@に変えてください)までご連絡ください。歌会の詳細についてお知らせいたします。
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一首評(第5回)

炎天にガリバーは来て踏みやらむ葡萄のごとき頭骨の群れを
(辰巳泰子「紅い花」より) 

 学校を詠んだ歌は数多くある。ほとんどの日本人が学校に通った経験と、それぞれの学校の景色をこころの中にもっているし、とりわけ教員として勤務した経験がある歌人も少なくないから、当然と言えば当然である。学校は不完全な子どもたちが、同級生と、先輩と、後輩と、教師と関わり合うミニチュアの社会であり、ミニチュアであるがゆえに濃密で閉じた世界である。学校で起こったことは何もかも、ときには、何も起こらなかったということさえ、ドラマである。
 辰巳泰子も、大阪の中学校で国語講師として働いた経験があり、連作「ガリバーは来て」は、その頃の体験を材料に作られたものであろう。人は学校を語る時、青春のユートピア的なあこがれの対象、もしくは強権的な教師と純粋な子どもとの対立の場というようなステレオタイプに陥りがちである。しかし、辰巳泰子の視点はあくまで教師を職業に選んだ一個の人間としてある。理想に燃えた熱血教師ではないが、子供たちを不当に弾圧するような教師でもない。その実感的でどこか冷静な視点から語られるからこそ、リアリティーがある。

掲出歌は「朝礼」と詞書がある。なるほど、校庭にひしめく生徒たちの頭が「葡萄のごとき頭骨」であり、それを巨人のガリバー(正確には踏まれる方が小人であるわけだが)が踏んでゆく。これは炎天がもたらしたくらくらする白昼夢なのか、それとも教師としての口に出せない願望なのか。
 葡萄のごとき、という比喩は一見さわやかだが、それがひしめきあいつつ踏まれゆく頭骨の比喩であると考えると、ひどくグロテスクである。本来硬さのあるはずの頭骨を、ぐしゃっとつぶれる葡萄に例える。ふだんは教師の手に余る中学生たちも、あまりに無防備で無力に踏みつぶされていく。そうやって周囲に飛び散る脳髄のさまも、この比喩によってありありと想像される。
 作者が意図したかはわからないが、前述したように、本来は「ガリバー」が通常の人間の大きさであり、踏みつぶされる対象は小人であるということも、生徒たちの無力さを強調している。校庭という一種の箱庭的空間に並んでいる生徒たち(そして作中主体ら教職員)は実はとても矮小で、外から来た強大なものに簡単に壊されてしまうような存在なのではないか。「ガリバー」のフィクション性も、この感覚を強化している。

 ところで、なぜ作者は結句の「を」を省略しなかったのだろうか。たとえば「頭骨の群れ」と体言止めで終わっても、意味は十分取れるし、音数が合う。このような場合、おそらく多くの人が自然と助詞を省略すると思う。しかしこの歌ではまるで念を押すように助詞を入れている。なるほど、「頭骨の群れ」と体言で音数通り終わると、一首があまりにさらりと出来上がってしまう。「を」の一音が、読む人をこの一首に立ち止まらせる。この過剰さがこの歌の情感を支えているのである。

 炎天の朝礼、というのは現在では安全面などに考慮してあまり行われなくなっているのではないだろうか。炎天の朝礼の、ふと誰かが倒れてしまいそうな危うさは、些細なきっかけで壊れてしまう拙い人間関係の危うさにも、出してはいけない感情があふれ出しそうなこころの危うさにも通じる。そんな微妙なほころびに満ちた世界を、ガリバーはおもむろに踏んでゆくのであろう。

(二〇一二年八月十八日 吉田瑞季)

一首評(第4回)

さみどりのペディキュアをもて飾りつつ足というは異郷のはじめ
(大滝和子『銀河を産んだように』)

 
 さみどり、と初句にぽんっと置かれた言葉がこの歌を印象付ける。さみどり、というと若草や若葉の色である。私の頭には萌え立つ新緑のみずみずしい色彩が浮かぶ。穏やかさと同時にエネルギーにも満ちている美しい色。またペディキュア(手に塗るのをマニキュア、足に塗るのをペディキュアと言う)を塗っているので季節は初夏から夏にかけてであろう。そして「飾りつつ」という言葉はこの歌の中ではプラスの言葉であり、この語によってこの歌がポジティブなのだとわかる。しかも「飾りつつ」の「つつ」という接続助詞が足の指一本一本を丁寧に飾っていく様子を表している。
 
 「足というは異郷のはじめ」の「足」はもちろんさみどりのペディキュアを塗った足である。異郷というのは「故国や郷里から遠く離れた土地」という意味だがこれはもちろん比喩であり、足が自分の身体から遠く離れているように感じるということだろう。
 その理由は緑が人体から遠い色であるからだ。もちろん瞳や血管は緑がかっているものもあるがそれはさみどりと呼ぶにはふさわしくない。マニキュアやペディキュアを塗ったことのある方ならわかるかもしれないが緑のペディキュアを塗られた足は大変目立つ。というよりも身体から浮くと言った方がふさわしいかもしれない。ゆえに緑のペディキュアを塗った足は遠くなる。もはや自らの見慣れた足ではなくなり、知らないもの、異郷となるのだ。しかもそれは遠くはなれた場所に立っている足ではなく「異郷」それ自身なのだ。   
 身体に異郷を見出すことは壮大で清々しく、そしてどこか神秘的である。その神秘的な感じが決して不穏さを帯びないのは「さみどり」というさわやかな語感と「さみどり」「ペディキュア」から導かれる季節ゆえだろう。
 もちろん足には主な役割として歩みを進めるというものがある。いつも足は身体の中で一番最初にまだ知らない場所、「異郷」への一歩を踏み出している。そういった意味でも足は「異郷のはじめ」というにふさわしいが、ここでは作中主体がわざわざさみどりのペディキュアを塗っているのでやはり足それ自身が「異郷」であると考えるのがふさわしいだろう。

 美しい色に塗られた足先は自分の体でありながら、異郷でもある。その異郷がどのような場所であるか具体的に特定できるような材料がこの歌にはない。各々思い描く異郷は違うのだろうが、この歌はそれに統一されたイメージを与えることを目的としていない。ただ自分の足に異郷を作る、異郷がある、という言ってしまえば簡潔な歌である。だからこそ結句には物語性が生まれ、上句の具体的なものから、異郷まで小気味よく飛躍することができるのだ。

 さて、夏だしわたしもさみどりのペディキュアで足を飾ろう。 

二〇一二年八月四日 村崎薫
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東京大学の学生を中心とした学生短歌会です。

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