スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

一首評(第十七回)

暑い日の影はときどき淋しくて振り返ったらそこになかった
                          沙羅みなみ

『影』という連作冒頭の一首である。炎夏の太陽によって地面に黒々と映し出される主体の「影」。その濃さ、強さ。その「影」と主体との関係を軸に、評を進めていこうと思う。

 まず、歌に詠まれた状況を整理してみる。「暑い日」は、それだけでは単に温度が高い日ということであり、天気までは読み取れない。曇っていたり、雨が降っていたりする蒸し暑い日という可能性もある。しかし、「暑い日の影」という描写がなされた場合、そこで喚起されるイメージは真夏の強烈な日差しを放つ太陽と、それによって作り出されるくっきりとした影である。また、作中主体が影を振り返って確認していることから、太陽は主体の正面にあると考えられる。現実に影が消失してしまうことは考え難いため、これは実景ではないだろう。
 影は主体によって形作られるものであり、主体の存在の強さこそが、影の強さである。前述の通り、状況から考えれば、作品内の影はくっきりとしており、「淋し」さとは無縁のもののように思われる。しかし、「影」は主体にとって「淋し」いものとして感じられている。その上で、作者が「振り返っ」たということの意味について考えると、それは自分の影が確かにそこにあるかを確認したかったからだろう。作者は自分の「影」の存在を確実視していない。そのことを反転させれば、作者は自己の存在を確実視できていないということになる。影は太陽光線を遮ることで、地面に浮かび上がる。影がないかもしれないということは、私の体を光線が透過してしまっているかもしれないということであり、すなわち、自分がそこに実体として存在していないかもしれないということである。
 影は外的な要因である太陽によって浮かび上がる。このことは、自己というものが外的な環境によって常に規定されながら存在する、ということを示唆している。家族と在るときの自己、友人と在るときの自己、学校での自己、会社での自己、公共の場での自己……というように。一人でいるときでさえ、自己は「他人の目に触れていない環境」という仕方で、外部によって規定される。それ以外の自己の在り方を考えることは難しい。「淋し」がっているのは「影」であって主体でもある。両者は決して切り離すことができない。
 作中主体がときどき感じる「淋し」さは、そうした外部による規定が、主体にとっては、失われかけているように感じられているということを意味する。それは、現実において、あらゆるコンテクスト(=他人による規定)を無視して、自由に振る舞えるようになるということではない。そうではなく、主体の感覚として、他人との関係性の喪失感・世界から浮き上がってしまっている感覚があるということだろう。この場面においてどう振る舞えばよいのかわからない、いう感覚は私たちも感じたことがあるものだ。すなわち、私がある環境の中で私であるという感覚は、その環境によって規定された自分がどれほどの存在感を持ちうるか(これは、主観的なものであるだろう)ということに依存する。そして結句である。ここでの「影」が「なかった」というのは、他者よる規定が感覚的には完全に失われたということを意味している。その喪失の感覚は強烈なものである。
 こうした読みは、作品の収められている連作を見ていくことで、さらにはっきりしてくる。以下に、連作に収められている歌を載せる。

あざやかな影になりたしたとうれば夏の真昼の日時計ほどの

 この歌は、連作中の最後の歌であるが、連作冒頭で示された影の喪失に対し、こちらの歌では影への希求が詠まれている。作中主体は「あざやかな影」になることを望んでいる。それは、自己の影が「あざやか」になることとは、自己の存在がより強まることに他ならない。そして、それは連作冒頭で失われてしまった自己の存在を取り戻すことを強く望むということでもある。


 歌の引用はすべて、沙羅みなみ『日時計』(2014年・青磁社)によった。

2015年7月13日 柳瀬大輝
スポンサーサイト

一首評(第十六回)

やり投げのやり空中を進みをり八時間前のロンドンのそら
                            小島ゆかり

 「オリンピック ~二〇一二年夏・ロンドン~」と題された連作の一首。夏季オリンピックの競技種目のひとつ、槍投げを詠んだ歌である。
 「やり」が空中を行くのは「進みをり」と現在時制だが、それは「八時間前」の過去のことである。まずここに、時制のうえでの奇妙なずれがある。作中主体は槍投げを観戦しているが、録画しておいた試合を八時間後のいま見ているとも考えられるし、リアルタイムで見ていて、「八時間」というのは日本とロンドンのあいだの時差を指しているのだとも読める(実際の日本・ロンドン間の時差は九時間だが、ロンドンでサマータイムが実施されていたと考えれば説明はつく)。だが前者の読みでは、現在時制で描かれた槍投げも実際のところは単なる過去になってしまい、時制のずれがもたらす奇妙さが後者の読みに比べ色あせてしまうように思う。ここでは後者の読みを採用したい。
 作中主体はテレビ越しに槍投げを観戦している。投げられた槍を、テレビのカメラが追っていく。その一瞬をとらえている。しかしこの歌は、単に実景を切り取っただけではないように思われる。読み終ったあと、先に見た時制のずれのせいか、かすかな違和感が残る。たしかに歌われている内容は、単なる実景かもしれない。だがこの歌は、読者のなかに、ある不思議な感覚、ある気づきへの糸口をもたらすようだ。その違和感は何に由来するのか、それはどんな隠されたものの糸口なのか、それを以下では見ていこう。

 わたしたちが生きている世界には「時刻」の概念がある。時刻は、イギリスのグリニッジ天文台を基準にし、そこから東西にどれだけずれているかで「いま」を割り振っていく、ひとつの制度である。他方で「時間」は、わたしたちがまさにそのなかで生きているものであって、そうした取り決めとは本来無縁のもののはずだ。だから時刻の概念を、時間というものと比べてみたときには、なにやら騙されているような感覚すら覚える。
 槍投げをテレビの前で観戦する作中主体と、ロンドンの競技場で槍投げを競う選手たちは、きっと同じ時間を生きている。だが時刻のうえでは、日本にいる作中主体はロンドンの選手たちよりも、少し「未来」を生きている。いま、まさに空中を飛んでいる「やり」をわたしは見ているのに、「やり」はわたしにとっては「八時間前」を飛んでいるのである。これが違和感の由来だろう。時刻と時間のずれとでも言おうか。
 しかしなぜ、こんなずれを気にするようになったのだろう。この問いは違和感の根底にあるものを導き出す。日本が夜なら、ロンドンが昼なのはまったくの常識だ。なんの不思議もない。このずれが感知されるのは、わたしたちが日本にいながらにして、ほぼ同時に、遠く離れたロンドンの光景を見ることができるからだ。長い距離をこえて、同じ光景を共有することができるということは、これもまた不思議なことだ。

 地球のうえの、かなり離れた二点にいる人々は、おそらく同じ時間を生きている。だが二点が属する時刻には、八時間のずれがある。それにもかかわらず、メディアの発達のために同じ光景を共有できている。テレビの前の作中主体と、ロンドンの槍投げ選手のあいだには、時刻のずれがあり、距離の隔たりがあり、しかし共有するものもある。これらのからみあいが、世界に隠されたささやかな不思議を形成している。
 「やり投げのやり」というとき、実際のテレビ画像がどうかはともかく、歌のカメラは「やり」しか映していない。選手も観客も競技場も、フレームの外に捨てられ、とらえられているのは空と、まっすぐ進む「やり」だけである。いや、空ですらないかもしれない。結句では漢字がひらかれ、ひらがなの「そら」になっている。「ロンドンの」という限定は付いているけれども、それは空間性が抽出された虚空を喚起する。時刻のずれと、距離の隔たりから自由な「そら」である。「やり」が地面に着地してしまえば、また競技場が映され、時刻は始まってしまうだろう。だから歌は、中空を進み続ける「やり」の、一瞬をとらえる。「やり」は未来にむかって進み続ける。想像を逞しくすれば、「やり」は、テレビの前にいる作中主体の方へ飛んでいるのかもしれない。

 オリンピック競技の槍、しかも飛んでいるということから、古代ギリシアの哲学者、ゼノンが唱えたパラドクスを連想することも、決して突飛なことではないだろう。「飛んでいる矢は各瞬間で一定の位置を占め、静止している。ゆえに矢は運動することができない」というものだ。着地を免れ、中空を行く「やり」の一瞬をとらえたこの歌と、イメージのうえで響きあうように思う。
 この一首は槍投げの、何の変哲もない一瞬を簡潔な言葉で切り取ることによって、世界のささやかな不思議を提示している。歌の時制のうえでのずれは、そのまま時刻と時間のずれであり、それは隔たりつつも同じ時間を生きる、わたしたちのありかたの不思議そのものに結びついている。この歌を読むとき覚える違和感は、そのような世界の謎に由来するものであり、かつその糸口でもあるのだろう。

2015年5月17日 畑中直之

歌の引用は、小島ゆかり『泥と青葉』、青磁社、2014年によった。

一首評(第十五回)

孤独こそ権力――銀の星雲を見つめゐし眼を地上へもどす 
(春日井建『夢の法則』)

 初期の春日井作品には音韻的に優れている歌は少ない、というのが筆者の印象なのだが、この歌は音韻的な工夫がかなり見えやすい形でなされている。「孤独」「こそ」「権力」などカ行音が集中的に配された張りのある韻律からスタートし、ダッシュを入れることによって一首の中に一瞬の、しかし一字空けよりは長くはっきりとした沈黙を挿入している。また、ダッシュの後にはカ行音はもはや現れず、「銀」「見つめゐし」「地上」といったイ段音と、「見つめゐし」「眼」「もどす」といったマ行音の反復によって特徴づけられる、呟くような韻律へと変化していく。それはまるで、「孤独こそ権力」と高々と宣言した主体が、徐々に視線を落としながら自信を失っていくさまを現しているようだ。こうした心の動きは、主体のまなざしが孤独を保つのに適した宇宙空間から孤独で居続けることの難しい地上へと移っていくこととも連動している。また、単なる字空けではなくダッシュを用いているところからも、後半は「孤独こそ権力」という言挙げに対する一種の留保またはためらいのようなニュアンスが感じられる。

 ところで、「孤独」が「権力」であるとはどういう意味だろうか。ある人間が自分の望む行動を取るように他者を強制または誘導することができるときその人間は権力を持っていると言うのだから、「孤独」でありながら「権力」をもっているという言い方は実はやや奇妙だ。しかし逆に言えば、真に孤独な主体は他者がふるう権力の客体に陥ることがない。孤独を保ち、自分が「見つめ」る他者から見つめ返されない限り、主体はつねに主体でいることができる。「孤独」が「権力」であるという意味は、ひとまずそのように理解したい。

 ともあれここで注意しなければならないのは、この歌は「孤独とは権力」と叫んでいるわけではないことである。「孤独とは権力」と「孤独こそ権力」の間には大きな違いがある。「孤独こそ」と殊更に言うとき、その背景では「孤独」と他のなにかの比較が行われている。もちろん他のなによりも「孤独」が「権力」に近いと思うからこそ「孤独こそ権力」という言挙げをするわけだが、一方でこの表現からは比較に敗れ去ったなにものかの影が消し難くにじんでくる。筆者には、このいわば残党のような影が「孤独」と「権力」を結びつける前半の言挙げを、あらかじめ疑われうるものとして存在させているように思える。より簡潔に言えば、「孤独こそ権力」という表現は、「孤独」イコール「権力」という結びつけが逆説的なものに過ぎないことを表明してしまっているように見える。また同様に、「地上にもどす」という表現は、主体がもともと「星雲」ではなく「地上」側の人間であったことを強調する働きがあり、ここからも「孤独」が「権力」でありうるのは「星雲を見つめ」ている間だけであるような、そんな気がしてくる。

 だがここまで書いてきて、主体の「孤独こそ権力」という信念が揺らいでいくという読みだけで果たして十分なのか、少し自信がなくなってきた。その最も大きな理由はこの歌に続く〈銃丸壁のごとき窓より見をろせば路上の男狙ひ撃つべし〉という歌が、権力への希求を失った者の歌には到底見えないからである。連作的に読むならば、「孤独」と「権力」の結びつきに対する疑問がないとは言えないにせよ、むしろ「地上」(もちろん、「路上」は「地上」である)においてもなお「権力」の持ち主たろうとする主体の宣言として一首を捉えるべきかもしれない。ところで考えすぎかもしれないが、こうした二つの読みのうちどちらに近い内容を感受するかには、連作性のほかに、ダッシュがもたらす沈黙をどう意味づけるかということが関わってくるように思われる。筆者の目にははじめ、「孤独こそ権力」と叫んだもののあとが続けられず言葉につまっているさまに見えた「――」が、しかし読者によっては「孤独こそ権力」という宣言を自分の中でよく反芻し、決然と地上に向かうための沈黙に見えるかもしれない。この沈黙を意味づけるとき、読者は自然と自分の見たいものを代入させられていると言ったら言い過ぎだろうか。

 この歌がもしも「孤独とは権力 銀の星雲を見つめゐし眼を地上へおとす」のような作りだったら、筆者が歌意を捉えるのにこれほど迷うことはなかっただろう。この場合はおそらく、孤独という権力を地上に及ぼそうとする主体の決然とした態度のほうを筆者も感じ取ることになっただろう。だが、意図的にせよそうでないにせよ、孤独を手放しに賛美しているとは言い切れない作りであるからこそ、孤独に対する定まりきらないアンビギュアスな感情を湛えているように思えて、連作中のほかの歌よりも強く、この歌に筆者は惹かれるのである。
 
2014年6月30日 七戸雅人

※掲出歌および引用した歌の表記は、いずれも『春日井建全歌集』(砂子屋書房、2010)によった。

一首評(第十四回)

帯剣の手入をなしつ血の曇落ちねど告ぐべきことにもあらず
宮柊二『山西省』

 昭和十六年の作品である。日米開戦はこの年の十二月の真珠湾攻撃を待たねばならないが、日本の中国における軍事行動は既に始まっており、作者の宮柊二は年譜によると昭和十四年から十八年まで中国各地の戦闘に参加している。

 敵兵の奇襲におびえながら、あるいは自軍の攻撃に備えて短刀を拭い終えた場面であろう。宮には「ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す」(『山西省』)というよく知られた作品もあり、以前の戦闘で自ら手を下した証拠として、「血の曇」が眼に映ったのだろう。そこには罪の意識も、戦場の行動を正当化したいという気持ちも、暗鬱な高揚感もあっただろうが、我々は何も知りえない。整った短歌詩型のなかでは何も語られてはいない。「告ぐ」が、その場の戦友らに向けて呟くことを指すのか、その時その場に限らず誰かに伝えることを指すのかは定めがたいが、作者は刃に残る血痕を拭い去ることができないという事実さえも、本当は自分ひとりの心の内におさめておくべきことなのだ、という素振りさえ見せている。そこで「つ」が動作の完了を示す助動詞であることに注目したい。作者はもう刀を鞘におさめている。血痕はついに落ちなかった。そこにはささやかだがあきらかな諦念がある。一首はその苦渋に満ちた横顔、閉じられた口元を見せることに成功していると言えるだろう。

 ところで、竹山広は長崎に投下された原爆を目のあたりにして、「人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきしてのひら」(『とこしへの川』)と詠んだ。加藤楸邨の「鰯雲人に告ぐべきことならず」(『寒雷』)はその数年前の作である。なにごとかを伝達しようとする表現のなかでその伝達を否定してみせるのは、考えてみれば奇妙なことだ。偶然と言ってしまえばそれまでだが、なぜ彼らはためらいを敢えて言挙げしなければならなかったのだろう。

 楸邨が何を「人に告ぐべきことならず」としたのかは示されていないが、同句を含む一連の前後には戦争の影が見え隠れする。燃えてゆく死体の手がひらかれてゆく光景も、刃の消えない血痕も、単にそれだけでは戦争の悲惨さを現前させる効果しかもたらさない。眼に映った事実のみを詠み、その現実が読者に与える衝撃の深さで歌の価値が決まるなら、短歌という詩型が持ってきた私性とは、あるいは表現とは何だろうか、ということになりうる。短歌は他の文芸の形式に比して私性、私小説性が強いとされてきた。そのような形式にあって、作品のモチーフの魅力の多寡、優劣で作品の評価が定まるならば、世界をまなざす歌人の眼、定型の枠内でよりよい表現を追求する歌人の計算や手腕にいかに価値を置けばいいのであろうか。作品のモチーフが短歌作品の重要な要素のひとつであることは論を俟たないが、不即不離の関係にある内容と形式が一体となって総体として評価されるべきであるというのが私の認識である。もちろん作者不在の歌にもよい歌はあるし、目を背けたくなるような現実も歌に乗せた時点で表現としての訴求力を得ていくぶんか救われる、という事態もある。しかし彼らは敢えて躊躇する自分の姿を見せることで、体験した者にしかわからない心情、他人には理解しえない苦悩の実在を示唆した、とは言えまいか。そこに短歌定型と現実を結ぶ歌人の貌がある。

 戦争体験は生涯にわたり宮柊二の作歌生活に影を落とし続けた。しかし、晩年の一首には一抹の清しさが宿る。この沈黙に秘められた思いも、なお知りがたいままである。

あつき夏の空となりたり仰ぎつつ若く兵なりし山西省おもふ
       同『白秋陶像』

二〇一四年一月七日 寺井龍哉

一首評(第十三回)

静物で在るという抵抗のあり寒き戸外に青林檎並び
             (京大短歌19号 廣野翔一「雪の終盤」より)

 「静物」というのは不思議な言葉である。「静物を描く」と人が言うとき、確かに「静物」はキャンバスの前に文字どおり静かにたたずんでいる。しかし、描かれなければ机の上のどの果実も、ガラス瓶も、鳥の羽も、髑髏も、「静物」ではない。描かれない静物などありえない。

 描かれないものがしかしそれでも静物として存在すること、それはまさに何者かに対する抵抗である。青林檎は「静物で在る」ことで、食べられるか腐るかするはずのその運命、時の流れから距離を置き、冷たく凛とした空気の中にただただ存在している。絵画の内部にわれわれが入っていけないのと同様に、描かれることのない静物たちにも、我々は拒まれている。

 注意するべきは、この歌が「青林檎並び」と、動詞の連用形で結ばれている点である。上の句の終わりも「あり」とイ段の音で終わっていることもあり、舌足らずな感じがする。しかし同時にこの連用形終止によって、この歌の危うさは際立つ。描かれた絵画の中の静物であれば半永久的にそこに存在し続けることができるが、描かれることない静物たちはどんなに抵抗してもいずれ変質してしまう。「青林檎並び」の連用形は、林檎たちが次の瞬間には静物であることをやめ流転する時の中へ転がり落ちていってしまうのではないか、という緊張感を生んでいる。

 絵画の中の静物たちは、永遠の安らぎの中に眠ることができる。しかし、描かれることない静物たちによる世界への抵抗は、静けさの中に鋭いエネルギーを秘めてつづいてゆく。絵画と言葉、時間と永遠、空間と平面。それらが拮抗するある一点を、この歌は切り取っているのである。

二〇一三年六月三〇日 吉田瑞季
プロフィール

本短管理人

Author:本短管理人
東京大学の学生を中心とした学生短歌会です。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
2492位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]

190位
アクセスランキングを見る>>
FC2カウンター
現在の閲覧者数:
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。